ウィリアム・ジェイムズの多元的存在論とベルクソンの持続の存在論
本論文の目的は、ウィリアム・ジェイムズ(一八四二―一九一〇)の多元的存在論とアンリ・ベルクソン(一八五九―一九四一)の持続の存在論とを比較検討し、両者の強い類似性と根本的な差異及びその起源を明らかにすることにある。ジェイムズとベルクソンはしばしば哲学的傾向の親近性が指摘される二人である。直接経験の重視、反主知主義、流れるものとしての実在の肯定など、彼らの哲学における類似点は非常に多い。しかしやはり二人は異なる哲学者なのであって、極めて強い類似性が認められながらもなお相違点が存在し、しかもそれは両者の哲学の根幹に触れる決定的なものであるように思われる。

ウィリアム・ジェイムズの多元的存在論と ベルクソンの持続の存在論 山根秀介 取り出そうとする「一と多」という哲学史上重要な主題に触れ ておかねばならない。これについて考えなかった哲学者は存在 実在の肯定など、彼らの哲学における類似点は非常に多い。し 人である。直接経験の重視、反主知主義、流れるものとしての ズとベルクソンはしばしば哲学的傾向の親近性が指摘される二 本的な差異及びその起源を明らかにすることにある。ジェイム 四一)の持続の存在論とを比較検討し、両者の強い類似性と根 一 〇 )の 多 元 的 存 在 論 と ア ン リ・ ベ ル ク ソ ン (一 八 五 九 ― 一 九 本論文の目的は、ウィリアム・ジェイムズ (一八四二―一九 と多をともに認めながら、両者の関係をいかなるものとするか 論の一方を採択して他方を廃棄するということに尽きない。一 も繋がるからである。またもちろん、問題は単に一元論と多元 区別は、一神教か多神教かという宗教にとって本質的な差異に か、あるいは世界の多なるものをそのままに受容するかという 深く関わってくる。なぜなら世界の根底に一なるものを据える 在論という問題系の内にあるのみならず、世界観、宗教観にも を貫いて連綿と受け継がれてきた。それは第一哲学としての存 はじめに かしやはり二人は異なる哲学者なのであって、極めて強い類似 の違いによる多くのバリエーションが存在するが、ジェイムズ しないと言えるほどまでに、このテーマは数多くの哲学的思索 性が認められながらもなお相違点が存在し、しかもそれは両者 とベルクソンの存在論はこちらに属すると言ってよいだろう。 以下で詳しく見ていくように、両者は「多」に関して一見著し の哲学の根幹に触れる決定的なものであるように思われる。 ここで本論がベルクソンとジェイムズとの比較検討を通して 論文:ウィリアム・ジェイムズの多元的存在論とベルクソンの持続の存在論 69 両 者の類似点 連続性と非連続性 まずジェイムズの「徹底的経験論」における「経験」とベル ) のような数少ない比較研究の先駆と言えようが、そこでも両者 る 経 験 論 が 従 来 の 経 験 論 と 決 定 的 に 異 な っ て い る の は、 こ の をも差し引かず、そこに何ものをも付け加えないという点、と のおおまかな相違点、傾向性の差異が示されているだけであり、 ・ラン テキストを丹念に読解することによって二人を比較しようとす ) る性質のものではない。また近年ではデイヴィッド・ ( りわけ、従来の経験論が経験の要素として認めてこなかった、 ) 経験と経験との関係それ自体をも、その関係を成す項と同じよ ( 比較してはいるが、いずれも軽く触れるのみであって精緻な比 ( ) 接 に 経 験 さ れ な い い か な る 要 素 も 認 め て は な ら な い し、 ま 経験論が徹底的なものであるためには、その構成の内に、直 バースやダビド・ラプジャッドがジェイムズとベルクソンとを C うに、経験されるものとして重要視したという点である。 4 70 く似通っており、ほとんど同一の事柄を説明しているようにさ え思えるが、 「一」に関しては根本的な不一致を呈する。「一」 相似的に見えた両者の「多」の相違を浮かび上がらせる。ジェ クソンの「純粋持続」とが共通して有している構造を浮き彫り と「多」は相関的な概念であるため、当然この懸隔がはじめは イムズとベルクソンの存在論が「一と多」に関してこのような にする。両者は連続的な変化、生成、流動と同時に、ある意味 れ ぞ れ の 非 連 続 性 を 支 え る 前 者 の「非 連 続 の 理 論 」 と 後 者 の 関係にあるために、ここにこそこの主題に関する問題意識が先 本論がもつジェイムズとベルクソンの比較研究史上の意義に 「持続の諸単位」の概念は、使用される言葉遣いが異なってい での非連続性、断絶をも重要な契機として備えており、特にそ ついて一言述べておこう。この二人の哲学者の関連性、また先 るものの、指し示す事態は同一だと思われるほど似通っている。 ( ( )ジェイムズの「経験」における連続性と非連続性 ジ ェ イ ム ズ が「徹 底 的 経 験 論 ( radical empiricism ) 」と称す に述べたような類似性は哲学史的には常識とも言えるレベルで 鋭的に現れるのである。 1 経験論が、直接的に経験されたものを「額面通りに ( at its face ) 」( ERE23 )受け取ろうとする点、つまり経験から何もの value 2 1 広く知られている。しかし両者の相違点について踏み込んで考 ) え よ う と し た 研 究 は 意 外 な こ と に そ れ ほ ど 多 く な い。 た と え ( ばホレイス・カレンやテオドール・フルールノアらの仕事はそ 1 較研究とは言えない。本論はこれまでほとんど大雑把に、また 3 散発的にしかなされてこなかった両者の精密な比較検討を目 指す。 5 ら な い。 こ の よ う な 哲 学 に と っ て、 諸 経 験 を 結 び つ け る 関 た直接に経験されるいかなる要素もそこから排除してはな 経験とを連結する推移自身が一つの経験となり、こうした複合 ( られる「変化それ自体が直接に経験されるものの一つである」 が、しかも上記の連続性と共存しうる非連続性がある。 性のみが本性を成すわけではない。実際にはそこには非連続性 しかしジェイムズが考える具体的な経験では、もっぱら連続 続性」はこのような事態である。 的な諸構造が連続的に繋がっていく。ジェイムズの「経験の連 )と 考 え ら れ る。 あ る 瞬 間 の 経 験 と そ れ に 続 く 瞬 間 の ERE25 係 は そ れ 自 体 が 経 験 さ れ る 関 係 で あ り、 経 験 さ れ る い か な ) ERE22 る関係も、他の一切のものと同じく、その体系において「実 在的なもの」とみなされるのでなければならない。( こ の「諸 経 験 を 結 び つ け る 関 係 」 が「連 接 的 ( ) conjunctive 経験」 、その関係によって結びつけられるところの経験は「離 非 連 続 性 の 理 論 に よ れ ば、 時 間、 変 化 な ど は 有 限 の 芽 や し )経 験 」 と 呼 ば れ、 こ れ ま で の 経 験 論 は 前 者 接 的 ( disjunctive の連接的経験に対して正当な地位を与えてこなかったとジェイ ず く に よ っ て 発 展 し、 そ の 際 に は 何 も 生 じ な い か、 あ る い ) ムズは言う。経験における項はそれを他の項と結びつける関係 は あ る 量 の 諸 単 位 が「 一 挙 に 」 存 在 し 始 め る か の ど ち ら か ( とあわせて、つまりこの二種の経験が同等の資格で、経験とし で あ ろ う。 こ の 見 方 か ら す る と、 宇 宙 の あ ら ゆ る 相 貌 は 有 この連接的経験には様々な種類があるが、そのなかで最も典 ─ こうした分離的な合成である。〔中略〕実在についてのあな 〔中略〕私たちの知覚的経験の内で実際に行われているのは 限の数で表すことのできる構造を有することになるだろう。 て捉えられなければならない。 型的なものとして詳細に論じられるのが、ジェイムズが「共 意識的推移( )と 名 付 け る も ERE25 たの認識は、文字通り知覚の芽やしずくによって発展する。 ) 」( co-conscious transition のである。それは「ある経験と別の経験とが同じ自我に属する ( もしすべての変化がこのようにいわばしずくの形でなされ ) SP80 ときの、その前者から後者への移行」として端的に定義され、 、「途 切 れ の 不 ) そ の 本 性 を 成 す の は「連 続 性 の 感 覚 」( ERE25 )によって発展していくように、一定 の知覚が脈動 ( pulses る な ら、 も し 真 の 時 間 が、 ち ょ う ど 時 間 に つ い て の 私 た ち 共 ─意識的推移とされる。自分の経験のある瞬間から別の瞬間 量 の 持 続 の 諸 単 位 に よ っ て 発 芽 し 発 展 す る な ら ば、 私 た ち )で あ る と さ れ る。 同 一 の 自 我 の 内 で、 二 つ の 経 在 」( ERE26 験が時間的に現われるとき、それらを結びつける連接的経験が への移行において経験される連続性の経験においては、感じ取 論文:ウィリアム・ジェイムズの多元的存在論とベルクソンの持続の存在論 71 6 はなかっただろう。 〔中略〕私たちの感覚的経験はしずくの を困らせるゼノンのパラドックスやカントのアンチノミー お い て 介 在 す る の は、 や は り 知 覚 の 流 れ そ れ 自 体 の 部 分 以 で は な い。 境 界 と は 介 在 す る も の で あ る が、 知 覚 の 流 れ に 壊 さ ず に 保 っ て い る。 そ の 境 界 は 視 野 の 境 界 と 同 じ く 明 瞭 外 に な い。 そ し て こ れ ら の 介 在 す る 部 分 に は、 そ れ が 分 離 形で私たちに生じる。時間そのものはしずくの形で生じる。 ( 隔 離 す る も の で あ っ て も、 知 覚 と し て は 隣 接 部 分 に は ま り す る も の が 溢 れ 出 て い る。 だ か ら 私 た ち が 区 別 し 概 念 的 に 非連続性の理論が述べるところにしたがえば、具体的な経験 込み、浸透し、拡散しているということが分かる。( SP32 ) ) PU204 は、各々固有の大きさをもった単位がひとつずつ積み重なって ジェイムズは言うが、 「経験されるものの内の 「本性 」と同じ数 )と 底的に多元論的、経験論的、知覚論的な立ち位置」( SP88 よ っ て 進 展 し 変 化 す る。 経 験 を こ の よ う に 考 え る こ と を「徹 生じる芽、しずく、脈動が非連続的に生じ連なっていくことに 定の速度で漸進的に構築されるのではなく、それぞれが一息に ) るものなのかを識別することは難しい。( PU127 る。 そ れ ら の 中 で 何 が 関 係 で あ っ て 何 が 関 係 付 け ら れ て い 連続的に互いにぶつかり合い浸透し合っているように見え る 明 確 な 限 界 の 内 に も 閉 じ 込 め ら れ な い。 こ れ ら の 脈 動 は 代 用 品 が あ る 範 囲 に 制 限 さ れ て い る の と は 異 な り、 い か な 経 験 の 諸 々 の 具 体 的 脈 動 は、 私 た ち が 用 い る そ の 概 念 的 な いくことによって発展していく。それは時間の経過に応じて一 )の で あ る か ら、 こ の 諸 だ け 多 く の 素 材 が 存 在 す る 」( ERE14 単位の多数性によって、ジェイムズが実在とする多性が可能と しかしこの非連続性の理論によって、ジェイムズは経験の連 輪郭を持たず、曖昧な境界を通して互いに浸透し溶け合ってい ついて述べたものである。経験を構成している諸単位は明確な 程を通して進行するが、右の引用はそれら諸単位同士の関係に 生きられた経験は諸単位が継起的に付け加わる非連続的な過 続性を否定しているわけではない。次の記述を見ると、ジェイ なる。 ムズはなお経験の内に連続性を認めている。 ) 、つまりはっきりとした境界線を持つゆえに相 単位」( PU130 互外在的で、それぞれが個々のものとして区別される諸単位と る。これは「主知主義的な論理が固守し計算の際に使用する諸 り 込 ん で 広 大 な 全 体 に 溶 け 込 み、 そ れ ぞ れ が 大 小 の 役 割 を は異なる。具体的経験を構成する隣り合う諸単位は繋がり合っ 私 た ち の す べ て の 感 官 に 由 来 す る 所 与 は、 知 覚 の 流 れ に 入 占 め て い る。 さ ら に こ う し た 部 分 の す べ て は 自 ら の 統 一 を 72 呼ぶものが成立する。項と項との「溶け合い」という事態その られることが示しているように、質的多性そのものとも言える 「質的」という言葉が「不分明な ( indistinct ) 」とも言いかえ ており、そうした構造が連鎖していくことで「知覚の流れ」と ものが、経験と経験とを結びつける連接的経験を意味している 純粋な持続においては、諸々の項が明確な輪郭をもって相互に ) のであり、それゆえジェイムズは経験の内に連続性と非連続性 外在的なものとしてあるのではなく、互いに融合し浸透し繋が )とも表現され、したがって持続においては一切が連続 DI75 このような質的多性、そしてそれが構成する持続の異質性は、 している。 ( のようなあり方は「諸要素の相互浸透、一体性、内的有機化」 さ せ 続 け、 決 し て 同 じ 状 態 に と ど ま り 続 け る こ と は な い。 こ ることによって組織化される。持続は一瞬ごとにその質を変化 ( とを矛盾なく認めることができるのである。 ( )ベルクソンの「純粋持続」における連続性と非連続性 「純粋持続 ( durée pure ) 」とはベルクソンが独自の仕方で捉 える時間の根源的な在り方であり、彼はこれを、とりわけ「質 的多性 ( ) 」という性質によって規定した。 multiplicité qualitative 傾 向 を 全 く も た ず、 ま た 数 と は 何 の 類 縁 性 も も た な い よ う し 合 い、 明 確 な 輪 郭 を も た ず、 互 い を 外 在 化 し よ う と す る 要 す る に、 純 粋 な 持 続 と は ま さ に、 相 互 に 溶 け 合 い、 浸 透 音は互いに繋がり合うことによって一つの曲として有機化され、 諸々の音の連なりとの関係においてのみである。メロディーの の 音 で し か な い が、 そ れ が 独 自 の 質 を も つ の は、 そ の 前 後 の おいて一つの音は、それだけを孤立させてしまえばまさに一つ しばしばメロディーの比喩によって説明される。メロディーに な 質 的 諸 変 化 の 継 起 で し か あ り え な い。 そ れ は 純 粋 な 異 質 その中でそれぞれの音は独自のニュアンスや価値、意味をまと 私 た ち の 内 に あ る 持 続 と は 何 で あ ろ う か。 そ れ は 数 と は 類 うなものであり、ベルクソンが真に実在的としたのはこの質的 ) 」へ 的な表象から獲得する「数的多性 ( multiplicité numérique 連続性を本質とするこの質的多性は、人間が知性による空間 多性である。 あ り、 そ の 中 に は 諸 々 の 判 明 な 質 が あ る の で は な い。 要 す 容易に変質する。たとえば私たちが鐘の音を聞くとき、その時 る が、 し か し 増 大 す る 量 で は な い。 そ れ は 純 粋 な 異 質 性 で 似 性 を も た な い、 質 的 多 性 で あ る。 そ れ は 有 機 的 展 開 で あ う。ベルクソンが持続する意識の事象に与えた多性は以上のよ ) 性であろう。( DI77 次のよく知られた箇所を引用しよう。 7 ) るに、内的持続の諸瞬間は互いに外在的ではない。( DI170 論文:ウィリアム・ジェイムズの多元的存在論とベルクソンの持続の存在論 73 2 )こ と に な る。 こ う し て 私 た ち は 質 的 多 性 を 知 ら ず る」( DI65 な媒体の内で切り離され、「質を剥奪され、いわば空虚にされ このような固有性は喪失する。このときそれぞれの音は等質的 ころが私たちがその鐘が何度鳴ったのかを数えようとするとき、 鳴ったときとも異なるような、独自の質、印象を獲得する。と 数を明確に意識することなく、まさに四度鳴ったときとも六度 間の流れに身を任せていれば、鐘が五度鳴ったとして、その回 略 〕 し か し、 た と え ば 持 続 す る 日 数 が 半 分 に な っ た 感 情 で 意識は時間を持続の諸単位の総和の形では覚知しない。〔中 て 間 隔 そ の も の を 対 象 と す る か ら で あ る。 た し か に 純 粋 な で あ る。 と い う の も、 心 理 学 は も は や 間 隔 の 両 端 で は な く が、 こ の 諸 単 位 こ そ ま さ に 心 理 学 者 の 関 心 を 引 く も の な の 与 え な い か ら と 言 っ て、 彼 ら の 好 き な よ う に 利 用 し て い る い て、 こ れ ら を 天 文 学 者 は、 こ れ が 科 学 に 全 く 手 が か り を しかし時間のこうした諸単位は生きられた持続を構成して ( う。( DI14)7 ( あ れ ば、 そ れ は も は や 意 識 に と っ て 同 じ 感 情 で は な い だ ろ 知らずのうちに「空間化」し、数的多性へと変えてしまう。 しかしここで、次のような疑問が生じる。鐘の音を五度とし て聞くこの分割が知性による恣意的なものでしかないとしたら、 れない。この一定の時間的幅をもった音の連なりを、あらゆる げた回数が人によってばらばらであるということはまず考えら 数に関して一致し、聞き間違いや数え間違いを除けば、数え上 には、鐘が何度か鳴らされたとき、私たちはみなその鳴った回 度として切り分けてもよかったということになる。しかし現実 性は連続性と共在することができる。ここで注目すべきは、持 たらされることは間違いない。しかし持続においてこの非連続 確かに「持続の単位」という概念によりある種の非連続性がも る。しかしこう考えたとしても持続の連続性は消え去らない。 続を構成する。持続は単位が付け加わる過程を通して形成され いき、それらは意識の諸状態として融合し、質的多性である持 持続する意識は一瞬ごとに単位として新たな要素を獲得して 私たちはこの同じ鐘の音の連続を、四度として切り分けても六 人にどんなときでも五度として分割させるための、潜在的では 続の「相互可入性」とでも言うべき特性である。科学的に考え ) あるが実在的な傾向、いわば「原分割」のような事態が、ここ 10 し持続の単位はそうではない。上の引用にあるように、「純粋 して定義される。ここでは全体が部分の総和と一致する。しか ( に存在しているのではないだろうか。このような疑問に答える られた時間や空間では、ある項は別の項とは明確に相互外在的 ( なものとして捉えられる。たとえば十秒は一秒のまさに十倍と ( 」 ための縁となるのが、 「持続の単位 ( unité de duré) e という概 ( 念である。持続が諸単位によって構成されているものであると 考えれば、この問いは解決されるように見える。 ( 74 で あ る。 持 続 の 構 成 要 素 た る 諸 単 位 は、 互 い に 浸 透 し 合 い 重 な意識は時間を持続の単位の総和の形では覚知しない」から 判 す る「各 々 が 全 体 の 中 に、 全 体 が 各 々 の 中 に 」 を 要 と す る さにジェイムズがブラッドリー的な絶対主義的一元論として批 れ同時に全体を反映してもいる様を示すのであるが、これはま 「全 体 的 合 流 の 統 合 」、「隅 か ら 隅 ま で ( through-and-through ) な り 合 う。 実 際 ベ ル ク ソ ン は、 質 的 多 性 に お け る「不 可 入 性 ) 」の否定について言及している。私たちが科学 impénétrablité 型の統合」に他ならないのではないか。それに対してジェイム ( )統 合 」( ERE5)2で ズ の 純 粋 経 験 は「連 鎖 状 の ( concatenated ( 的な視点から事物に関わるときにのみこの「相互不可入性」が あって、そこでは部分的な合流が重なり合うことでゆるやかな にしたい。 すわけではない。両者の違いがいかなるものであるかを明らか ( 有効なのであって、それは「物理的次元の必然性ではなく、論 集合体を構成することはあっても、決して全体的な有機性を成 理 的 必 然 性 」( )に よ る。 感 情、 感 覚、 観 念 と い っ た 持 続 DI66 「全体」をめぐって における諸要素は、 「不可入性」にしばられず、互いに溶け合 い入り込む。 ― 両 者の相違点 ( )ベルクソンの「持続」における統一、全体 「持 続 」 に お け る「全 体 の 全 体 へ の 内 在 」 、言い換えれば持 る「経験」と、ベルクソンの「純粋持続」との共通点を探り、 )こととは、 続する意識が「全体を有機化 (組織化)する」( DI90 自 身 に な る に つ れ て、 そ の 意 識 の 諸 状 態 は 併 置 さ れ る こ と し か し 自 我 の 表 面 を 掘 っ て い く に つ れ て、 ま た 自 我 が 自 我 が 他 の す べ て の 諸 状 態 の 色 合 い を 帯 び る よ う に な る。 こ う に非連続的とも言える単位が、相互の溶け合い、浸透によって して私たちは各々が各々の愛し方、憎み方をもつのであり、 連続的に繋がるという構図だけを取り出せば、この二つの考え しかし実際には根本的な差異がある。それは両学説における を や め て 互 い に 浸 透 し、 溶 け 合 っ て 全 体 を 成 し、 そ れ ぞ れ 統 一、 全 体 と い う 事 柄 に 関 わ る。 ジ ャ ン ケ レ ヴ ィ ッ チ が 述 べ ) この愛、この憎悪は各人の人格全体を反映している。( DI123 はほとんど違いがないようにすら見えるかもしれない。 という点で類似の構造を備えていることを明らかにした。互い どのような事態を指すのだろうか。 ここまでの議論で、ジェイムズが徹底的経験論において考え (1 両者が連続的かつ非連続的に構成され発展していくものである 1 た よ う に、 純 粋 持 続 は「全 体 の 全 体 へ の 内 在 ( l’immanence de ) 」という在り方を、すなわち各々が全体から規定さ tout à tout 論文:ウィリアム・ジェイムズの多元的存在論とベルクソンの持続の存在論 75 2 が そ の 各 々 に 反 映 し て い る と い う 意 味 で、 各 々 が 魂 の 全 体 こ れ ら の 感 情 は、 十 分 な 深 さ に 達 し て い れ ば、 魂 の 全 内 容 論」と題された節において、この二つの哲学的立場のどちらも 質を異にするものである。『形而上学入門』の「合理論と経験 一 は、 哲 学 の 歴 史 の な か で 是 と さ れ て き た よ う な 統 一 と は 性 ) 、 「動 的 な 統 一 」( DI179 ) 、「私 た ち の 心 的 存 似 た 統 一 」( DI83 構造を指したものである。「メロディーの一節が有する統一に から規定され、同時に全体を反映してもいる持続のこのような 響し合う。ジャンケレヴィッチの表現は、諸状態の各々が全体 ていく。あらゆる要素は他のあらゆる要素と強く結びつき、影 たびごとに全体において持つ意味、意義、価値を変化させ続け る要素は、そのたびごとに持続全体を一新させ、諸要素もその の進展は増大というよりも豊穣化なのであって、新たに参与す の全体の相貌、本性をつねに変え続けていくものである。持続 るものとして、時々刻々と絶えず持続の全体に付け加わり、そ とはまったく異なっている。この持続の単位は、持続を構成す うな、空間的な認識に基づいたモデルによって理解される事象 積まれていくにつれて構造物全体が次第に大きくなっていくよ 「持続は単位によって構成される」とは言っても、積み木が 一、実り豊かで、知性が夢見るものよりも優れた無限に豊穣な に結合することによって自ずと形成される統一、「有機界の統 は、全体が有機的に組織化された統一、持続の質的多性が内的 の統一と全く別のものであることは明らかである。持続の統一 絶対的に空虚なもの」にすぎない。これがベルクソン的な持続 定的なもの」、「一切の規定の不在」、 「絶対的に未規定のもの、 そうして作り上げられた自我の統一性なるものは、「純粋に否 論はなおも自我に固執し、それを観念的にこしらえようとする。 の心理状態の寄せ集めでしかないと宣言するのに対して、合理 て上げるだけである。そこで、経験論が自我はそのような多数 れは結局、そのような心理状態をただ足し合わせた総和を仕立 チワークのように継ぎ足して自我を組み立てようとするが、そ めに、自我の断片であるはずだとされる諸々の心理状態をパッ な自我の統一をあらかじめ想定しておいて、そこに到達するた 述されている ( PM194-195 ) 。彼によれば、両者は固定的で静的 が「自我の統一」を獲得しようと試みるも失敗に終わる様が叙 ) を表している。( DI124 )な ど、 ベ ル ク ソ ン が 持 続 を 在 と い う 流 動 的 な 集 合 体 」( EC3 ) 、「豊 か で 充 実 し た 統 一、 連 続 性 の 統 一、 私 た 統 一 」( EC106 ) 表現するにあたってしばしば全体性、統一性を強調するのは、 )なのである。 ちの実在の統一」( PM27 ( 持続が一つの総体として強い緊密性を備えていることを示すた めであろう。 と は 言 え、 ベ ル ク ソ ン が 持 続 に 実 在 的 で あ る と す る こ の 統 13 76 ものであるかを見ていこう。この言葉が使用される文章は以下 ( )ジ ェイムズの「経験」における統一、全体 では次に、ジェイムズ的な「連鎖状の統合」とはどのような 関係、時間的に前後するものの関係は極めて多様であって、た い。というのも、このような世界の内に見られる諸事物同士の と形容するのは、比喩としてそれほど適切ではないかもしれな こ れ を ジ ェ イ ム ズ 自 身 が 言 う よ う に「モ ザ イ ク 的 」( ERE22 ) の通りである。 る。 二 つ の 部 分 は、 そ れ 自 体 で は 分 離 さ れ て い る に も か か )として描写す 接的に関係づけられた一つの集積 ( collection 徹底的経験論は世界を、ある部分は連接的に、他の部分は離 ) 」( ERE23 )の強度によって互いに異なっており、 性 ( intimacy ) 。諸関係はそれぞれの「内密 うな連結は存在しない」( ERE24 から構成されているが、ただその一種類だけで全経験を貫くよ ていくわけではないからである。「あらゆる経験は諸々の連結 だ一通りの関係がすべての部分をのっぺりと画一的に繋ぎとめ わ ら ず、 両 者 が そ れ ぞ れ 連 結 さ れ る 諸 々 の 媒 介 項 に よ っ て 諸事物がその絶対的実在の内へと取り込まれるときに獲得 る。そのような明確に多様な接続を「連鎖状の統合」と呼び、 接的に連関することもある。こちらでいくつかの要素が「内密 隣り合って直接に交わることもあれば、多数の媒介を通して間 してジェイムズの「経験」において、ある項とその他の項とは、 有機的一体性を成すということを前節で確認したが、それに対 ベルクソンの「持続」は全体が全体と結びつくという緊密な )関係などと呼ばれることになる。 ERE54 ) 」 そ れ に 応 じ て 相 対 的 に、「内 密 な 」 関 係、「外 的 な ( external 0 接 続 し う る の で あ っ て、 同 じ よ う に 世 界 全 体 は、 そ の 一 部 0 ( 0 分から他の部分への移行を可能にする連接的推移の何らか 0 の 道 が つ ね に 認 め ら れ る 限 り、 や が て は 接 続 し う る の で あ されると一元論的体系が考えるような、「隅から隅まで」型 な」関係によって寄り集まって一つの構造体を作り、またあち 0 の統合、 「各々が全体の中に、全体が各々の中に」(全体的合 ら で 同 じ こ と が 生 じ、 こ の 二 つ の 構 造 物 が「外 的 な 」 関 係 に 0 流の統合と呼んでもよいだろう)と区別することにしよう。連 0 鎖 状 の 世 界 に お い て は、 し ば し ば 部 分 的 な 合 流 が 経 験 さ れ よって希薄な連関を取り結ぶ。一切は無限に多様で固有の仕方 0 る。 私 た ち の 概 念 や 感 覚 は 合 流 す る し、 同 一 の 自 我 の 継 起 で繋がり合い、この世界に存在する事象であれば、可能的にで 徹底的経験論で考えられている世界は、様々な要素や部分が 成された秩序ある一つの世界ではない。ジェイムズにおいて、 言えそうして獲得されることになる全体は、有機的組織的に形 さえ互いに何の関係も結ばないということはありえない。とは ) 的な諸状態、同一の身体の諸感情は合流する。( ERE52 様々な仕方で関係し合っているような、雑然とした有様を示す。 論文:ウィリアム・ジェイムズの多元的存在論とベルクソンの持続の存在論 77 2 ) 統一、統合、全体と言われるものは実在的、必然的なものとし てネガティブな位置に置かれる。知性は「空間の一点を空間の かうものであるとされ、したがって実在を認識する本能に比し 段階として事物そのものを認識するのに対し、知性は関係に向 ) て、それなしでは諸々の多なる要素もありえないようなものと 他の一点に、またある物質的対象を他の物質的対象に関係付け ( して考えられているわけではなくて、事実上というよりもむし ( ろ 権 利 上、 あ る い は 潜 在 的 に 存 在 し う る も の で あ る。 こ こ に ) る能力」と定義され、本能が不十分ではあれ事物の直接認識に ( ジェイムズが自らの存在論を多元的と規定する根拠がある。 )も 関わる一方で、あくまで「事物の外部にとどまる」( EC176 の と さ れ る。 し た が っ て「知 性 は 生 命 に つ い て の 自 然 な 無 理 )ことになるのであって、 解によって特徴付けられる」( EC166 それはたとえば英語のもろもろの不変化詞によって表現される 同様に、実在的なものの内に数え入れる」ということであった。 全体においてはじめて意味を持つという点で部分に対する全体 ディーの比喩でも示されていたように、持続における諸要素は 節 と で も 言 う べ き も の を 備 え た 多 元 的 な 構 造 を 持 つ が、 メ ロ 自体の実在性を持ちはしない。ベルクソンの持続は潜在的な分 それが仕立て上げる「関係」も当然、実在に事後的にかぶせら )も の で あ っ て、 上 で 見 た よ う に こ れ ら は そ の「内 密 ERE24 において「関係」概念が有するステータスに由来するように思 性」により異なっている。こうした関係が無数に存在すること の優位があるのだから、そこでは部分同士の関係というものは れる幻影、非実体となる。ベルクソンにおいて関係はあくまで がジェイムズの存在論から絶対的な統一を排斥し、かつそれを 二次的なものに追いやられざるを得ない。そのような関係につ 知性による構築物、空間的な表象の派生物であり、決してそれ 多元的なものにしていることは前節で明らかにした通りである。 いて云々することは、全体から取り出され孤立させられた複数 ( ジェイムズにおいて関係は項とともに経験を構成しており、そ ) の項を問題にする限りにおいて、等質的空間による質的なもの 17 ) われる。 ( の意志とは無関係に、ベルクソンにも届くものであるように思 の剥奪である。ジェイムズがブラッドリーに宛てた批判は、彼 ( れ自体直接に生きられるもの、実在的なものとして、高い地位 を与えられているのである。 しかしベルクソンにおいて「関係」はそのようなものではな い。彼においてそれは「知性」に、しかも本能と対比させられ た「知 性 」 に 対 応 す る も の で あ る。 本 能 は 直 観 の あ る 種 の 前 18 78 15 16 わ れ る。 そ も そ も ジ ェ イ ム ズ の 徹 底 的 経 験 論 の 根 本 テ ー ゼ は ( ) 「関 係」概念をめぐって このようなジェイムズとベルクソンの違いは、両者の存在論 14 「関係を連接的経験として、それによって関係付けられる項と 3 した。他方でベルクソンの考える神は、あらゆる生命の源泉と しての神であり、「諸世界がそこから湧出してくる一つの中心」 が協働することによって、互いに浸透し繋がり合うものであり 点を探ってきた。両者が実在と認めるものは、連続と非連続と ベルクソンの「純粋持続」論を比較検討し、その共通点と相違 ここまでの議論によって、ジェイムズの「徹底的経験論」と ところであり、またジェイムズ的「有限な神」ともいくらかの る「ユダヤ ─キリスト教的」なものであるかは議論が分かれる て含む一」と言うことはできる。このベルクソンの神がいわゆ のあらゆる歴史を生の永遠としての自己の歴史のうちに収縮し れ、この神は「無限の質的多を自己のうちに含んだ一」 、「万物 近 づ い て い く 傾 向 を 見 る こ と が で き る か も し れ な い。 と も あ おわりに ながらなお多元的な組成を有したものとなるという点で強い類 共通点を備えていることは確かだが、それでも前者が一神教的 )で あ る。 こ こ に プ ロ テ ィ ノ ス 的 な 一 者 と そ の 流 出 に EC249 似性を示す。しかし話が全体、統一に及ぶと、両者の間に鋭い ( 対立が生じてくる。ベルクソンの「純粋持続」では全体が全体 な神を、後者が多神教的な神を志向するという極めて大きな差 ) の内に入り込み、部分が全体を表すという有機的で統一的な構 異があることは指摘できる。 分は様々な密度によって他の部分と接続し合い、そのような繋 貫して建築的であり、現象と実在との不可侵の差異を強調する ホレイス・カレンが言うように、ベルクソンは「体系的、一 ( 造を示すのに対し、ジェイムズの「徹底的経験論」ではある部 がり合いを少しずつ追っていけば全体に行き着くかもしれない 一元論者」であるのに対し、ジェイムズは「体系よりも洞察と てすませてしまえるわけではない。しかしこの二人の対立の内 を見る」。もちろんどちら るところにジェイムズは multiverse の哲学者も、一元論者、多元論者として単純にカテゴライズし を見 universe という、消極的な意味での全体しか認められない。そしてこの ) 所与とに専心する」のであって、「ベルクソンが は、両者の宗教論、とりわけ神概念の差異の背景を成している に、一と多という哲学史における重要な問題を考える手がかり ( 相違を両者の「関係」概念の差異に求めたのであった。 と思われる。ジェイムズは『宗教的経験の諸相』及び『多元的 が存しているのではないだろうか。 本論で明らかにしたようなジェイムズとベルクソンの差異 宇宙』において、力でも知識でも制限され、私たちと同じ時間 20 ) 」( PU54 ) 、またそのよ と空間に生きる「有限な神 ( finite God うな神を複数受け容れる余地のある「一種の多神教」を提唱し、 )と 宣 言 「宇 宙 の う ち に 絶 対 的 統 一 は 実 現 さ れ な い 」( VRE413 論文:ウィリアム・ジェイムズの多元的存在論とベルクソンの持続の存在論 79 19 略号 ジ ェ イ ム ズ の 著 作 か ら の 引 用・ 参 照 に は 以 下 の 略 号 を 用 い、 略 号 の 後 か ら 出 版 さ れ た 全 集 The Works of ろ の 数 字 は Harvard University Press の頁数である。 William James ( ) PP=The Principles of Psychology 1890 ( 1902 ) VRE=Varieties of Religious Experience ( 1909 ) PU=A Pluralistic Universe ( 1911 ) SP=Some Problems of Philosophy ( 1912 ) ERE=Essays in Radical Empiricism ( 1903-1923 ) PM=La pensée et le mouvant ( 1907 ) EC=L’évolution créatrice ベルクソンの著作からの引用・参照には以下の略号を用い、略号の後ろの 数字は Presses universitaires de France, Quadrige 版の頁数である。 ( 1889 ) DI=Essai sur les données immédiates de la conscience ( 1896 ) MM=Matière et mémoire 注 in Contrasting Theories of Life, Chicago: University of Chicago Press, 1914. ( ( ( ( ( ( ) TH. Flournoy, La philosophie de William James, Saint-Blaise: Foyer ( 7 6 5 4 3 2 )。 PP236 )。 DI78 ) 『物 )、 『創 造 的 質 と 記 憶 』 に お け る「宇 宙 の 自 然 な 分 節 」( MM221 進 化 』 に お け る「あ ら ゆ る 運 動 は 内 的 に 分 節 化 さ れ て い る( articulé ( を参照。 universitaires de France, 2012, p. 403 )同 様 の 議 論 は『創 造 的 進 化 』 で も 簡 単 な 形 で で は あ る が 行 わ れ て い る )。 EC338 Sébastien Miravéte, «La durée bergsonienne comme nombre spécial», ( éd. ) , Annales bergsoniennes V, Paris: Presses dans Frédéric Worms たベルクソン国際シンポジウムにおける “Spencer, Renouvier: comment と 題 さ れ た 発 表 が 参 考 に な っ た。 Bergson a-t-il inventé la durée?” )こ の「持 続 の 単 位 」 の 概 念 に つ い て 気 づ か せ て く れ た の は セ バ ス チ ャ ン・ミラヴェットの研究である。二〇一二年十月一九日に京都で行われ 「不 ) 分明な、あるいは質的な多様性」( ) 『心 理学原理』で言われる思考の「推移的部分」と「実質的部分」の哲 学的な語彙による言い換えであろう( ある。本論文はこのような潮流に呼応するものである。 焦点が絞られており、これまでの両者の比較研究とは一線を画すもので が刊行された。 ans après, Paris: Presses universitaires de France, 2011 この論文集では、科学、宗教経験、概念といった個別的な論点に議論の )と は言え近年、ジェイムズとベルクソンとの比較研究を行う質の高い諸 論 文 が 収 録 さ れ た Stéphane Madelrieux ( éd. ) , Bergson et James, cent Presses universitaires de France, 1997, p. 34-38. Experience, New York: Cambridge University Press, 1999, pp. 180-183. ) David Lapoujade, William James. Empirisme et pragmatisme, Paris, Solidariste, 1911, p. 180-187. ) Dav id C . La mbert h , W ill i a m Ja m e s a n d t h e Met a phy s i c s of ( 8 ( 9 10 ( ) Horace Meyer Kallen, William James and Henri Bergson : A Study 1 80 ) 」 ( EC310 ) 、 「 (ケ プ ラ ー や ガ リ レ イ の よ う な 等 質 的 intérieurement な時間を実在と考える人々にとって)時間は自然な分節を持たない」 ( EC331 )といった表現は、本節で明らかにしたような多元的な構造を 持った持続という考え方が念頭に置かれてのことだと思われる。 ( ) Vladimir Jankélévitch, Henri Bergson, Paris: Presses universitaires de France, 1999, p 7. ( )この二種の統合のタイプの違いは、ジェイムズが「全体形( all-form )」、 「各 個 形( each-form ) 」と呼ぶものに対応しているように思われる 存在論が可能になる。 「いかなる本もいかなるテーブルも関係を取り結 ) 。 de France, 1995 )と りわけこの「外的な」関係の在り方によって、ジェイムズ的な多元的 議論されている( Bergson, Cours, tome 3, Paris: Presses universitaires クソン講義録第三巻』 「 『純粋理性批判』についての講義」の中で詳しく ) 。 ( PU20 ( )合 理論において考えられているとされるこの統一の典型としては、カン トの言う統覚の綜合的統一が挙げられるだろう。これについては『ベル ( ぶことはできるが、その関係は両者の存在によってではなくそれらのそ の時々の状況によって、その場限りで作り出される。経験のあまりに多 くの連接性がこれほど外的に見えるからこそ、純粋経験の哲学はその存 在論において多元論へと傾かなければならないのである」 ( ERE53-54 )。 ( ) 「私 が直観と言うのは、利害関係から離れ、自己自身を意識するように なり、自身の対象について反省することができ、またこれを無際限に拡 ( ) 。 大することのできる本能のことである」 ( EC178 「本 ) 能と知性とにおいて、それらが生得的な認識として含んでいるもの ) 。 EC149 を考察するなら、本能の場合にはこの生得的な認識は事物に及び、知性 の場合には関係に及ぶことがわかる」 ( ( ( ( ( 「ブ ) ラッドリー氏は、私たちが現実に経験しているこれらの関係のどれ 一つとして実在的なものではありえないと私たちに告げる。したがって 私 た ち の 次 の 任 務 は、 徹 底 的 経 験 論 を ブ ラ ッ ド リ ー 氏 か ら 救 う こ と で な ければならない」( ERE53 )。 )マ チアス・ジレルによれば、「内的関係」を「外的関係」に優先させた とされるブラッドリーにおいても、そもそも関係は内的であれ外的であ れ矛盾を含むものであると考えられており、したがってそれ自体の実在 Mathias Girel, «Relations internes et relations spatiales: James, 性をもつことはない。この点でもベルクソンとブラッドリーは一致して いる。 Bradley et Green», dans Archives de Philosophie, Tome 69, Paris: 九九九年、一〇〇頁。 Beauchesne, 2006, p. 400-401. )本 田裕志「ベルクソン哲学における神」『龍谷大學論集』四五四巻、一 ) Horace Meyer Kallen, op.cit, pp. 104-105. 論文:ウィリアム・ジェイムズの多元的存在論とベルクソンの持続の存在論 81 17 18 19 20 11 12 13 14 15 16
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山根 秀介
所属機関・部署: 舞鶴工業高等専門学校 人文科学部門
職名: 講師
研究分野 (1件): 哲学、倫理学
研究キーワード (2件): プラグマティズム , 宗教哲学